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弘仁6年(815)弘法大師がこの地  
    へ止まられたとき、丁度梅雨のた  
    め蒼社川が氾濫して農民たちは苦  
    しんでいました。大師は早速村人 たちを集めて頑丈な堤防を築か  
    せ、完成すると川原に壇を襲いて  
    加持の秘法を修められました。す  
    ると満願の日に空中に地蔵菩薩が  
    現われましたので、大師は早速地  
    蔵菩薩像を刻み、堂宇を建ててそ  
    こへ本尊として安置し、延命地蔵 経の中の"女人泰産"から名をとっ  
    て泰山寺と名づけ、第56番の霊場 に定められました。その折秘法を  
    修められたところに松を植え"忘れ ずの松"と名づけました。  
    その後、天長元年(824)には淳和 天皇の勅願所となり、七堂伽藍を  
    整えて10坊を持つ大寺となりまし たが、たびたびの兵火によって、  
    その規模は段々小さくなり、金輪  
    山の山上からふもとの現在地へ移 築されました。  かつてあった10坊も今は1坊も  
    残っておらず、お寺の近くに阿弥 陀寺、十輪寺などの地名だけが  
    残っています。  お寺では巡拝者向けの機関紙 「同行新門」を月3回発行し、読者  
    は全国にまたがっています。  |  
     今治市の郊外・田圃の中に高く  
    石垣を組み白い塀をめぐらせて台 地に泰山寺は建っています。 
       石垣を上り、境内に入るとすぐ  
    左に鐘楼、向い合って庫裏、正面  
    奥に本堂と大師堂が並んで建って います。  境内の鐘楼の傍には3代目といわ  
    れる大師お手植えの"忘れすの松" が見えます。  |