尾形 乾山 1663年〜1743年
寛文3年(1663)京都の富裕な呉服商尾形宗謙(おがたそうけん)の三男として生まれました。兄は画家の光琳です。二人の性格は対象的で、光琳が派手好みであったのに対し乾山は内省的、隠遁的な性格の持主であったといわれています。 野々村仁清に陶芸を学んだ乾山は、元禄12年(1699)37歳のとき京都市の鳴滝に開窯しました。そして正徳2年(1712)50歳の乾山は、京市内の二条丁子屋町に移住し、多くの作品を手がけ「乾山焼」として世にもてはやされました。鳴滝時代の末期からこの丁子屋町時代にかけて兄の光琳は絵付で乾山を助け、兄弟合作の作品が数多く残されています。
享保16年(1731)69歳の頃に江戸に下り寛永寺(かんえいじ)領入谷(いりや)に窯を築いて晩年を送りました。そして81歳で没するまで江戸に在住し陶器や絵画の制作に手腕を発揮しました。 乾山の作品は陶芸作品のみならず書や絵画においても、俗気を脱したおおらかで文人的な洒脱味があります。陶芸作品においては成形、施釉、焼成は他の専門的な陶工に任せたり、絵付についても光琳との合作以外に複数の専門画家が携わっていたと思われるなど、基本的には工房生産という態勢をとっていたようです。しかし、乾山の指導のもとにつくられたやきものには、その大胆なデザイン感覚とともに乾山特有の芸術性が溢れ、乾山その人とふれあうような親しみが感じられるのです。
Bernard H.Leach 陶芸家。1887年〜1979年 香港生まれ。
明治42年(1909年)に来日して、始め宮川香山、その後大正元年(1912年)6代尾形乾山に師事し楽焼を学び、のち7代乾山を免許される。富本憲吉、濱田庄司、柳宗悦らと親交を結び、古陶磁・民芸の影響を受ける。大正4年に北京に居住していた時期もあったが、柳宗悦のすすめにより日本へ戻る。大正6年(1917年)我孫子に窯が完成したが大正8年に全焼。大正9年、濱田庄司を伴い帰英、セントアイブスに築窯する。以来、東洋陶磁とイギリスの伝統的な陶技の融合した作品を発表した。
森川如春庵(1887〜1980)
幼少時から茶の湯を名古屋の西行庵下村実栗に習い15歳ですでに久田流の奥義に達していたといわれ、天性優れた審美眼の持ち主でした。16歳の時、西行庵宅で出会った本阿弥光悦作の黒楽茶碗「時雨」を懇望し入手します。さらに19歳にして平瀬家の売り立てで同じく光悦作の赤楽茶碗「乙御前」を買い求めます。十代に光悦の名碗を2碗所持した如春庵の感性は鈍翁を驚かせ、39歳の年齢差を感じさせない交友がはじまりました。「佐竹本三十六歌仙絵巻」切断や「紫式部日記絵詞」の発見など、如春庵の長い生涯には多くのエピソードがあり、日本の財界に活躍した鈍翁と茶の湯一筋に生きた如春庵との手紙や茶の湯道具のなかに今なお生きています。 |