表装の原点

 表装は経巻や書画を保護、装飾する事からはじまりました。その発祥は中国の三〜六世紀に王家の書画の表装をする人々が現れ中国仏教史上最盛期の隋、唐時代には仏典の漢訳、書写が国家的規模で行われ、経巻の表装技術も発達しました。この発達した技術が仏教にともなって渡来して、日本の表装史がはじまります。
 
装黄師の時代「そうこうし」

 奈良時代には官立写経所が設けられ写経は書生(写経生)、校正、界正、題師、装黄師、画師により分業で行われました。このうち装黄師というのが表具師の前身です。装黄師の仕事は、写経の料紙を染めたり紙を切ったり継いだりし整え、軸・表紙・紐を装して帙(おおい)にくるみ経箱におさめることでした。律令制が崩れた後、独立し経師と称されるようになり、経巻や暦などの表装を専業とし、また宋の印刷技術が渡来してからは書物の印写もするようになりました。
 「装黄師」
装とは料紙などを使用目的に従って切ったり継いだりすることを意味します。
黄とは料紙を染める事を意味します。(黄-正しくはさんずいに黄と書きます)   
装黄は写経のなどの料紙を整えることを意味するものでまだ掛物表具をさすものではないようです。 
 
表ほえ師の登場「ひょうほえし」

 表装史の最初の転換期は鎌倉・室町時代の禅宗の伝来によっておこりました。貴族にとってかわった武士階級により日宋禅僧の交流が盛んになり、ここで宋で確立された表具の式が伝来しました。これは書画の品等を定めて、これに準じて表装の式をさだめたもので、このとき表ほえという宋音の名称も伝わりました。で、表ほえとは日本でいう真・行・草3体の真にあたるもので本尊表具に対して使われています。このころから経師とは分野の違う表具専門職の表ほえ師が現れました。
 「表ほえ師」 表→おもて  ほえ→裏
表と裏を貼りあわせたものの意ですから表装そのものを指します。


表装三体の成立
 
 表装史の最大の転換期は茶道によってもたらされました。茶道や能や美術工芸が、東山文化として発展した足利義政の時代に日本の表装式の祖ともいわれる能阿弥、相阿弥が現れます。能阿弥、芸阿弥、相阿弥の父祖三代は将軍家の雑務や茶事をつとめ(同朋)義政に仕えました。能阿弥は将軍家所蔵の書画目録「君台観左右帳記」を、相阿弥はそれら書画の使用や鑑賞の実際を記した「御飾記」をそれぞれ記しています。その「君台観左右帳記」では書画が上中下に分類し、さらに真・草の類別がされています。これは茶道の真・行・草三体に通じるものであり、後に相阿弥が表装様式に取り入れ表装三体を確立しました。また、割り出し寸法において一文字の上が一寸の場合、下を五分というように上下を二つ割りにする古法も能阿弥、相阿弥によって定まったといわれています。この他にも、掛物を巻いたまま外題の部分を客に見せて、客の所望によりこれをかけるという“外題飾り”は能阿弥が外題をかいたことではじまったともいわれています。

 栄西禅師が中国から茶の種子を持ち帰って約半世紀後、大応国師によって茶の作法がもたらされました。それをさらに一世紀余り後に、一休禅師が弟子の村田珠光に教え、珠光がこれを発展させ日本の茶道の創始者となりました。珠光が義政に教えた茶の作法は、大名茶として東山文化の一翼を担うが町方に伝わった茶は武野紹?、千利休により侘び茶として完成しました。

 茶道の創始、洗練、伝承の過程において表具はつねに刺激をうけ、相阿弥の表装三体はこんにちのかたちに確立されました。珠光までは茶席の掛物はすべて絵でした。珠光は一休禅師から圜悟禅師の墨蹟を与えられこれを茶室の床にかけよと、いわれ能阿弥に指図して「上下−媚茶、中廻し・風帯−薄浅黄、露−濃浅黄糸 一文字なし、塗り撥軸 」 に表具しています。布は平絹の黄絹で、その簡素な趣は侘び表具の典型例です。茶人たちの美意識を反映した、日本独自の表具の誕生です。

その他の表装

額装

 額は中国から渡来した篆額にはじまります。篆額とは、門名・堂名・楼名などを木板に彫刻し、宮門や寺門の軒下に掲げるものです。平安時代には嵯峨天皇が儀式を唐法に改めました。それから多くは木彫文字に彩色したもので、時代に合わせて造りも変化し、掲げる場所も寺社宮門から民家へと広がりました。
 隠元禅師によって明清の文人画が渡来し、唐風書道の流行とあいまって紙額が生まれました。明治以降は洋額が普及するようになり、鴨居の上に紙額や折釘で壁に釣りさげる“雲盤”を和額として区別するようになりました。
 また、和額、洋額を折衷した「枠張り」など現代の生活様式にマッチした和洋額が工夫されました。


巻物、帖

 中国の手巻を日本では巻物とか巻子といいます。これらは保存や携帯に便利な形で、経巻や書籍、暦、絵巻物として、装黄師がこれにたずさわりました。折帖は、秀吉が名筆を保存するためにつくらせた「古筆手鑑」が日本における最初と伝えられています。長い巻物を折りたたんで仕立てたもので「手鑑」は名筆を集めたアルバムです。そのうち、折帖の背を糊づけした“冊”が書籍装幀の主流になります。


屏風

 折りたたみ式の屏風は中国の唐時代にはじまり、日本には天武朝に朝鮮から渡来しました。東大寺献物帳には「御屏風一百畳」とあり、当時の宮廷で屏風が重要な調度であったことがうかがえます。平安時代には宮廷や貴族の邸宅において、屏風は儀礼用、装飾、間仕切りとして不可欠の調度でした。真言宗の かんごよう式 に山水屏風が使用されるなど、寺院においても重要のものとなります。また、当時は蝶番に皮、紐、金具が使われていましたが今日のような紙の蝶番ができたのは室町頃で朝鮮から伝わりました。
義政以後江戸幕府に至るまで、外国への贈物には金屏風が用いられ、明においては中国の硬屏に対し、軟屏といわれ珍重されました。桃山、江戸時代には庶民階級にも普及し、風炉先屏風、枕屏風等々用途に応じて大きさも変化しました。


衝立

 中国の屏風から、日本では屏風と衝立が生まれました。古くは衝立障子と呼ばれています。下部を台木ではさみ、移動の簡単な目隠しと装飾をかねた調度です。現在では書画、彫刻、染織、ガラスなど多様な装飾がほどこされ、また鏡や傘立て、帽子かけなどをとりつけた実用向きのものもつくられるようになりました。




 襖障子、唐紙障子のことで唐紙ともいいます。障子とは、衝立や建具など、もののへだてにするものの総称です。平安時代に貴族達が、遣唐使が中国から持ち帰った模様紙を、衝立や障子に張ったことから唐紙障子と呼ぶようになりました。現在の障子は明かり障子といわれ、平安末からのものです。布障子、紙障子といわれたものも襖障子のことと思われますが、襖障子の名は、書院建築によって建具の発達をみるようになる室町頃から登場します。厚紙または布張りのものを“ふすま”といい、紋柄のあるものを唐紙といいました。 障子に絵をかくことは古くから行われていましたが、禅僧や高名な絵師によって水墨画や花鳥画が描かれるようになり、安土桃山時代の城郭建築の発達が、豪壮華麗な襖絵を出現させました。